名古屋城について / 建築・構造

天守

金の鯱が輝く天守閣

名古屋城の天守閣といえば金の鯱で知られ、その輝きは東海道や美濃路にも届いていたと言われます。その金の純度は非常に高く、天守の建材には多くの檜が使われていました。
他の城と比べても格別に豪華な造りだったとされています。

戦災焼失前の天守閣(ガラス乾板写真)の画像
戦災焼失前の天守閣(ガラス乾板写真)

家康より天守閣の大工棟梁を命じられたのは、側近の中井正清でした。作事奉行には小堀政一が任命されます。ふたりは駿府城の築城も務めたベテランコンビでした。正確な資料は残されていませんが、古い資料によると、檜2,815本、欅角物408本、松角物9,796本、タタミ1,759畳が使われたといわれます。檜をぜいたくに使った天守は、松や杉で建てられた他の城と比べて格別な豪華さでした。天守閣は、1612年(慶長17)にほぼ完成しました。
また、名古屋城といえば金の鯱。純度80パーセント、小判にすると17,975両に値します。純度だけでなく厚みもあり、その輝きは東海道や佐屋路、美濃路を行く旅人や、七里の渡しの舟人たちにも届いたといいます。まさに、家康の権力と財力の権力を象徴するもののひとつでした。

天守閣は、1945年(昭和20)に戦災で焼失してしまいました。戦後、市民の寄付によって鉄筋コンクリート造で再建。それから半世紀が経過し、耐震性の確保などのために、木造での復元が計画されました。「金城温古録」「昭和実測図」「ガラス乾板写真」などの資料に基づき、史実に忠実な復元が目指されています。