名古屋城について / 建築・構造

堀・石垣

大名たちが積み上げた名古屋城の石垣

名古屋城の石垣は、豊臣方の大名たちによって築かれました。
下の絵図は、石垣づくりを担う各大名の割り当てを示したもの。
重要な天守台の石垣は、城づくりの名人とされた加藤清正が担当しました。

名古屋城御城石垣絵図の画像
名古屋城御城石垣絵図
石垣づくりの丁場割りの画像
石垣づくりの丁場割り

名古屋城の石垣は、徳川家康の命により西国を中心とした20の大名による公儀普請で築かれました。どの大名にどこの石垣づくりを割り当てるかを表した丁場割図を見ると、各大名に細かく割り当てられていることがわかります。
本丸搦手馬出周辺の石垣を調査によれば堀底に埋まっている部分に技術的な変遷が見られ、各大名の石垣づくりの技術の差も窺えるといわれます。重要な天守台の丁場は、加藤清正が任されました。これは、家康が清正の技術の高さを認めていたからだとされます。

石垣の普請は、1610年(慶長15)6月に根石置きが始まり、8月に清正による天守台の石垣づくりが完了。翌9月には、本丸、二之丸、西之丸、御深井丸の石垣もほぼ完成し、大名たちが帰国したとの記録が残っています。石垣の石には様々な印が刻まれています。「刻印」「刻紋」と呼ばれ、石垣を築いた諸大名が自分の運んだ石に刻んだもの。藩同士の石の所有を巡るトラブル防止の意図があったと推察されます。

名古屋城の石垣は、築城から現在まで何度か積み直しが行われてきました。江戸時代の代表的な修復は、宝暦の大改修時の天守を引き上げて行った積み直しです。ただし、記録が少なく不明な点も多くあります。1970年(昭和45)に豪風で石垣が崩落したのをきっかけには、その後継続的な石垣の修復整備が行われています。

名古屋城の堀は「鵜の首」の形

名古屋城の堀の画像
名古屋城の堀

名古屋城の堀の形は「鵜の首」といわれます。本丸に向けて外周から直角に狭い堀が入り込む形状。ここに敵をおびきよせて攻撃するために築いたものだという説があります。鵜の首の形をした堀は、築城当初は5ヶ所ありましたが、離宮時代に馬車の通行に不便とされ1カ所埋められました。