観覧ガイド
名古屋城
特別史跡 名古屋城とは
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1610年(慶長15)、
大坂の豊臣方への備えとして、名古屋城の築城を開始します。
築城を命じられたのは、加藤清正、福島正則など、豊臣家に従ってきた西国大名20家。
これを天下普請(てんかぶしん)といいます。
徳川の威信をかけて築かれた名古屋城は、金鯱を頂く巨大な天守、絢爛豪華な本丸御殿、
広大な二之丸庭園、高い石垣と深い堀、堅固で巧妙な縄張などを備え、近世城郭の完成形
といえるものでした。
名古屋城は、江戸260年を通じて御三家筆頭・尾張徳川家の居城として栄えます。
築城にあわせて清須から町ぐるみの引越し「清須越」が行われ、現在の名古屋の街の原型となる、碁盤割(ごばんわり)の城下町が形成されました。
名古屋城は往時の姿をよく伝える国内屈指の城郭として、国の特別史跡(※)に指定されています。
名古屋のまちづくりの原点であり、名古屋文化を物語る名古屋城。
次代に語り継ぐべき、近世城郭の真髄に出会えます。
※特別史跡とは、文化財保護法により指定された史跡のうち、特に価値が高いと認められるもので、国宝と同格とされます。
本丸御殿
(焼失・再建)
1615年(慶長20)、尾張藩主の住居かつ藩の政庁として建てられた、日本を代表する書院造の建物です。近世城郭御殿の最高傑作といわれ、城郭では天守閣とともに国宝第一号に指定されました。1945年(昭和20)の空襲により惜しくも焼失しましたが、江戸時代の図面など貴重な史料をもとに正確に復元工事を進め、2018年(平成30)、絢爛豪華な往時の姿が蘇りました。
名勝 二之丸庭園
歴代藩主が公私にわたって過ごした二之丸御殿の北側に設けられました。藩主が居住した御殿の庭園としては日本一の規模を誇ります。明治期に御殿とともに庭園も一部を除いて取り払われましたが、江戸時代後期の大規模な大名庭園として非常に価値ある遺構が残されていることがわかり、2018年(平成30)、庭園のほぼ全域が名勝として指定されました。
重要文化財 西南隅櫓 通常非公開
本丸の南西隅に位置し、1612年(慶長17)頃に建てられました。外から見ると屋根は二層ですが、内部は三階の櫓となり、珍しい形式とされています。二階西面と南面には、敵を攻撃するための石落しを張り出して屋根を付けています。
重要文化財 東南隅櫓 通常非公開
本丸の南東隅に位置し、1612年(慶長17)頃に建てられました。西南隅櫓(すみやぐら)と同じ構造で、三階東側の屋根の軒には弓なりになった軒唐破風(のきからはふ)という格式の高い装飾が施されています。
重要文化財 西北隅櫓 通常非公開
御深井丸の北西隅に位置し、1619年(元和5)頃に建てられました。外観三重、内部も三階の構造で、江戸時代から現存する三階櫓の中では、全国で2番目の大きさを誇ります。
天守閣(焼失・再建)閉館中
1612年(慶長17)に完成。1945年(昭和20)、空襲で焼失しましたが、戦後、鉄骨鉄筋コンクリート造の建造物として再建されました。現在は、設備の老朽化や耐震性の確保などの問題に対応するために閉館しています。
重要文化財 表二之門 公開
1612年(慶長17)頃に完成。本丸の南側にある門で、門柱や扉に使われている木材は太く、鉄板を打ち付けて堅固に造られています。門の両側にある袖塀は土塀で、鉄砲を撃つための穴、鉄砲狭間(てっぽうざま)が開いています。
重要文化財
旧二之丸 東二之門 公開
1612年(慶長17)頃に完成。主柱と左右の控柱にも屋根をのせた高麗門(こうらいもん)形式で、門柱や扉などに帯状の鉄が打ち付けられています。かつては二之丸東鉄門跡にありましたが、1972年(昭和47)、当時の部材そのままに本丸東二之門跡に移築されました。
正門(旧榎多門 焼失・再建)
本丸へ至る正門は、藩主や年寄職など一部の家臣しか出入りできない格式高い門でした。1910年(明治43)に旧江戸城内の蓮池御門が移築されましたが、戦災で焼失したため、1959年(昭和34)、天守閣とともに再建されました。
茶席
御深井丸(おふけまる)の庭内、約2,000㎡の中に、書院、猿面望嶽茶席(さるめんぼうがくちゃせき)、又隠茶席(ゆういんちゃせき)、織部堂(おりべどう)という、いずれも由緒ある茶席が設けられています。
西の丸御蔵城宝館
石垣・清正石
徳川家康の命により、元豊臣家臣の外様大名20家が石垣工事を行いました。石垣の石には各大名の目印が刻まれています。最大の巨石は「清正石」と呼ばれ、加藤清正が運んだと伝えられていますが、この石垣の施工大名は黒田長政なので単なる説話と思われます。
埋御門跡
二之丸庭園の西方に藩主脱出用の門が設けられていました。いざというときは、土塀の下方に造られた門をくぐって階段で空堀へ下りると、舟で水堀(御深井大堀)の対岸へ渡り、そこから逃走できるようになっていました。
乃木倉庫
御深井丸(おふけまる)に残る明治期の建物で、弾薬庫として建築されました。名の由来は、陸軍少佐・乃木希典(のぎまれすけ)からとされていますが確かではありません。空襲による焼失を免れ、事前に避難させてあった多くの障壁画や天井画が守られました。
天然記念物
必勝カヤの木
樹齢600年以上と伝えられる天然記念物「榧(かや)の木」。尾張藩初代藩主・徳川義直が大坂の陣に出る際、勝利を祈って、その実を食事の膳に盛ったと伝えられています。
フォトスポット
名古屋城内でおすすめの撮影スポットをご紹介します。さまざまなアングルを試して、お気に入りの名古屋城を見つけましょう。
那古野城跡
現在の二之丸にあったと伝えられる那古野城は、今川氏によって尾張への備えとして築城されました。1538年(天文7)頃に織田信長の父・信秀が城を奪うと、後に信長に譲ります。信長は1555年(弘治元)に清須城に移るまで、この城に住んでいました。
藩訓秘伝碑
初代藩主・徳川義直の著書『軍書合鑑(ぐんしょごうかん)』の巻末にある「王命に依(よ)って催さるる事」を記した碑。天皇を敬う勤王(きんのう)の精神を述べたものです。歴代藩主は藩訓として代々、守り伝え、明治維新では勤王派を表明しました。
青松葉事件の遺跡
1868年(慶応4)、幕府を支持する佐幕(さばく)派弾圧事件が起こり、14名が斬首、20名が処罰されました。「青松葉(あおまつば)」とは、処刑された筆頭格の重臣・渡辺在綱(ありつな)の呼び名に由来します。
加藤清正石曳きの像
石垣づくりの名人とされた加藤清正は、名古屋城築城の際、最も重要な天守台の石垣を担当しました。彫像は大石に乗り、石の運搬を指揮する清正。美しい扇の勾配を描く天守の石垣は、石垣構築技術が完成の域に達したことを示しています。
南蛮練塀
(なんばんねりべい)
二之丸北面に一部現存する土塀。他の土塀とは構造が異なり、柱や厚板を用いず、粘土と砂利を石灰や油で練り固めて強固に造られています。鉄砲を撃つために鉄砲狭間(てっぽうざま)だけが円形に開けられていました。
御深井丸(おふけまる)展示館
御深井丸(おふけまる)に位置する木造平屋建ての展示館。定期的に企画テーマを変えながら、地域に伝わる郷土玩具や土人形、本丸御殿復元事業などに関する展示を行っています。
金鯱
(きんしゃち)
天守閣に頂く金の鯱は1959年(昭和34)に復元されたもので、北側を雄、南側を雌が飾ります。雄は高さ2.621m、重量1,272㎏。雌は高さ2.579m、重量1,215㎏。からだを覆う金のウロコには18金が使用されています。