名古屋城について / 名古屋城の歴史
近世
名古屋台地に築かれた尾張徳川家を象徴する城
名古屋城は、徳川家康が西国・北国の大名らに命じて、いわゆる公儀普請で築いた城です。
当時の最先端技術が用いられた壮麗な城は、初代の義直以降、16人の藩主が守り、
約260年にわたって尾張徳川家の居城となりました。

1607年(慶長12)、家康が尾張一国を与えた四男・松平忠吉が28歳で死去。その後、九男・義直が遺領を継ぎました。
当時の尾張の中心拠点であった清須城は、水害などの危険性が高いため新たに築城の必要ありとの上申が家康になされます。これを受けて家康は、1609年(慶長14)、名古屋台地に城を造るよう命じました。
家康は、公儀普請によって上方周辺の城の整備を進めていました。丹波篠山城、丹波亀山城、伊賀上野城などに続き、名古屋城もまた1610年(慶長15)から公儀普請によって築城が始まります。加藤清正、福島正則など、主に西国や北国の諸大名20名が動員されました。
大名には石垣建造の担当箇所がそれぞれに割り振られました。天守台の石垣は、名手とされた加藤清正が自ら申し出て、3ヶ月とかからずに築き上げました。1612年(慶長17)には、大小天守が完成。大天守大棟には金鯱が上げられ、尾張徳川家の象徴となる天守になりました。同年に本丸御殿建設にも着工し、1615年(慶長20)に完成しています。当時の最先端にして高度な技術が駆使されて名古屋城は築かれました。
義直から始まる尾張徳川家十六代

1607年(慶長12)、家康の九男・義直が藩主となり尾張徳川家の歴史が始まります。義直、光友、綱誠、吉通、五郎太、継友、宗春、宗勝、宗睦、斉朝、斉温、斉荘、慶臧、慶恕(慶勝)、茂徳、義宜。16人の藩主によって260年余りの治世が続きました。
義直(よしなお)は、清須城主だった家康の四男・忠吉(ただよし)の死を期に尾張を任されますが、この時まだ8歳。政務はしばらく付家老の平岩親吉が担いました。義直は、家康が亡くなった1616年(元和2年)に名古屋城に入城。17歳にして「徳川御三家」の一角を率いる立場となります。義直の時代には、尾張柳生の祖となる新陰流の柳生利厳(やぎゅうとしとし・としよし)を抱えたことや、学問に力を入れて尾張教学の礎を築いたことがよく知られています。
1650年(慶安3)、義直が亡くなり、子の光友(みつとも)が家督を相続。光友は、尾張藩の血統を維持するため美濃高須家などの支藩を設けました。三代綱誠(つななり)は父光友の隠居により1693年(元禄6)に藩主になりますが、わずか6年後の1699年(元禄12)に亡くなりました。四代吉通(よしみち)は、綱誠の十男。わずか10歳で藩主となりしばらく後見がつきますが、自立後は六代将軍家宣(いえのぶ)からの信頼が厚かったといわれます。しかし、1713年(正徳3)に、25歳の若さで急死。さらに、3歳にして五代藩主となった吉通の子・五郎太(ごろうた)は、わずか2ヶ月で亡くなってしまいます。これによって尾張徳川家の直系は途絶えてしまいました。
六代藩主についたのは、四代吉通の弟の継友(つぐとも)。三代綱誠の十二男です。1716年(享保元)、継友は七代将軍・家継(いえつぐ)の死に伴う御三家からの後継者選出において、紀伊家の吉宗(よしむね)とともに候補に挙がりました。けれども、八代将軍には吉宗が選出されました。
その後、継友は1730年(享保15)に39歳で逝去。弟の宗春(むねはる)が七代藩主となりました。宗春は、将軍吉宗の「享保の改革」に真っ向から反発し、質素倹約よりも積極的な経済政策をとったことで有名です。城下町では歌舞音曲を奨励し、芸どころ名古屋の発展に寄与しました。しかし、尾張藩の財政も赤字が拡大。宗春は、政策転換を試みますが、1739年(元文4)に幕府から隠居謹慎を命じられました。
宗春の隠居謹慎後、二代光友の時代に設けた支藩高須藩の二代藩主になっていた宗勝(むねかつ)が八代藩主になりました。宗勝は緊縮財政で宗春時代の膨大な赤字を解消しようとしました。1762年(宝暦11)に宗勝が逝去。子の宗睦(むねちか)が跡を継ぎました。宗睦は40年藩政を司り「尾張中興の祖」と呼ばれています。宗勝の方針を受け継ぐ藩政改革を行い、藩校の明倫堂(めいりんどう)も創立しました。
宗睦は世継ぎとなる子を次々になくしたため、一橋徳川家から1800年(寛政12)に十代藩主となる斉朝(なりとも)をむかえました。十一代斉温(なりはる)も十一代将軍・家斉の十九男。続く十二代斉荘(なりたか)は斉温の兄、十三代慶臧(よしつぐ)は田安徳川家からの養子。このように初代義直とは血のつながらない藩主が続きました。
1849年(嘉永2)、慶臧が14歳で病死した後、十四代藩主には高須藩主・松平義建(よしたつ)の二男・慶恕(よしくみ)(後に慶勝(よしかつ)と改名)がつきました。慶勝はこの後、激動の時代である幕末の名古屋を率いた人物です。積極的な藩政改革を進めていた折、大老井伊直弼のアメリカとの条約調印を批判したことで1858年(安政5)に「安政の大獄」で隠居謹慎を命じられました。隠居謹慎後、藩主は慶勝の弟の茂徳(もちなが)に譲られますが、1862年(文久2)に慶勝の隠居謹慎が解かれると、慶勝の三男の義宜(よしのり)が家督を相続。義宜を藩主として、その後の実権は慶勝が握りました。
慶勝は、1864年(元治元)の第一次長州征討では征討軍総督に任ぜられて軍を統率。幕府にとっても重要な役職を任せるに足る人物でした。1868年(慶応4)正月、戊辰戦争が始まると慶勝は新政府方につき、新たな時代の幕開けを後押ししました。
天守を持ち上げて石垣を積み直した宝暦の大改修

月日の経過とともに、天守や石垣の手入れが必要とされました。1669年(寛文9)、はじめて天守の修理が行われ、屋根や瓦、壁のしっくいの手入れがなされました。その後、1740年(元文5)まで、大小様々な修繕が行われます。
しかし、建造から100年以上も経つと、天守台石垣は沈み、天守が北西に傾いていました。そこで、1752年(宝暦2)、八代藩主宗勝は大規模な修繕を行いました。いわゆる「宝暦の大改修」です。天守をテコの原理で60cmほど持ち上げ、石を積み直す大がかりな修繕が行われました。加えて、天守を一部解体し、二・三・四重目の土瓦を銅瓦に替える、破風(はふ)を銅板張りにする、銅製の雨樋を設置するといった改造がおこなわれました。