名古屋城について / 名古屋城の歴史

近代

陸軍省から宮内省へ。名古屋城と呼ばれなかった時代

明治に入ると名古屋城は陸軍の所管となり、取り壊しの危機を迎えます。
しかし、全国屈指の名城として永久保存されることが決まると、
宮内省所管の名古屋離宮となり、天皇や皇后、皇族の宿泊などに利用されました。

明治5年頃の名古屋城の画像
明治5年頃の名古屋城

1869年(明治2)、版籍奉還で尾張藩は名古屋藩と改称、その後、1871年(明治4)に廃藩置県で名古屋県となりました。名古屋城は、1872年(明治5)に本丸に陸軍東京鎮台第三分営が置かれ、同年に二之丸、三之丸も陸軍省の所管になります。翌年、東京鎮台第三分営から名古屋鎮台に改称され、天守を仮兵舎、本丸御殿が名古屋鎮台本部に。その後、二之丸、三之丸に兵舎などが整えられていきます。この頃、場内に新たに陸軍の施設が建てられると同時に、二之丸御殿をはじめ多くの建物が撤去されました。乃木倉庫はこの時期に建てられたといわれます。

こうした動向に対し、名古屋城を保存すべきとの声が挙がりました。1879年(明治12)に、陸軍省、内務省、大蔵省は、名古屋城を姫路城とともに「全国中屈指の城」として、永久保存する方針を決定。この決定によって、保存修理の費用や人員の負担が重くなったことをひとつの要因に、名古屋城の陸軍省から宮内省への移管が1891年(明治24)に決まりました。しかしこの年、濃尾地震が発生。本丸多聞櫓や西之丸の榎多門(えのきだもん)は大破し、石垣も崩壊しました。地震による修復は陸軍省が費用を負担し、技術者を擁する宮内省が実務を行いましたが、本丸多聞櫓は撤去されました。

名古屋城が宮内省に移管され、1893年(明治26)に本丸・西之丸東部は名古屋離宮となりました。この後、1930年(昭和5)までこの名で呼ばれ、天皇や皇后を度々迎えます。本丸御殿は、皇族の宿泊所として利用されました。1911年(明治44)、濃尾地震で大破した榎多門に代わり、旧江戸城の蓮池門を移築し、離宮の正門とします。同じく地震で壊れた西南隅櫓は1923年(大正12)に宮内省が修復。このため、西南隅櫓の瓦には葵ではなく菊の紋章が見られます。

1930年(昭和5)、名古屋離宮は名古屋市へと下賜されて、再び名古屋城と呼ばれるようになりました。翌年には一般公開が始まり、多くの市民が足を運びました。

明治初期、オーストリアで輝いた金鯱

元昌平坂聖堂ニ於テ 博覧会図の画像
元昌平坂聖堂ニ於テ 博覧会図

明治のはじめ、兵部省(陸軍省の前身)には名古屋城全てを軍の施設にしようとする計画があり、世間には文明開化にともなう江戸時代までのものを破却しようとする風潮もありました。名古屋藩知事となった徳川慶勝は、天守閣は取り壊され、金鯱も無用の長物となるのではないかと予見。1870年(明治3)に、新政府の資金とした活用してもらうために、宮内省への献納を申し出ました。翌年、宮内省はこれを受け入れ、金鯱は天守から降ろされます。

宮内省は、この金鯱を鋳つぶすことなく保管しました。そして、1872年(明治5)の東京湯島聖堂での日本初の博覧会へ雄の金鯱を出展。これを皮切りに、日本各地の博覧会へ出され、好評を博します。1873年(明治6)には、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に雌の金鯱が出展されました。日本コーナーの入り口を飾られ、大評判だったといわれます。その後、金鯱を名古屋城へ返すべきとの声が、フォン・ブラウン、中村重遠(しげとお)、名古屋の旧家・伊藤次郎左衛門らから挙がりました。こうした声を受けて、1879年(明治12)に金鯱は名古屋城の天守閣へと戻されました。