名古屋城について / 城外の発展

東海道と宮宿、有松

名古屋城の周りの宿駅

名古屋は京都と江戸の中間にあり、多くの街道が通る交通の要所でした。
東海道随一の賑わいを見せた熱田神宮の門前町である宮宿や
絞りで有名だった鳴海宿の様子は、浮世絵などにも描かれています。

「尾張名所図会」で描かれた熱田の画像
歌川広重作「東海道五拾三次之内 宮 熱田神事」
絞りを求める人が訪れた鳴海宿の画像
絞りを求める人が訪れた鳴海宿

名古屋は京都と江戸の中間にあり交通の要所でした。主な街道として、東海道、佐屋路、美濃路があり、これらの道は幕府の管理のもとにありました。公家、大名、幕府の役人、朝鮮通信使、琉球使節など江戸へ向かう人たちをはじめ、江戸時代には一般人の伊勢参りや物見遊山も増え、様々な人と物資が行き交うことで名古屋も発展していきました。

熱田の宮の門前町である宮宿は、東海道随一の賑わいを見せる宿駅でした。尾張藩にとっても船番所、船会所、熱田奉行所などを置いていた重要な拠点のひとつ。宮宿は桑名宿と「七里の渡し」と呼ばれる海路で結ばれていました。熱田から西へ、海路を行くのか、陸路の佐屋路を行くのかの分岐点でもあったのです。この他、名古屋の城下町や他の街道にも通じていたことから、多くの人が宮宿で足を止めました。その様子は「尾張名所図会」にも記されています。

この他、東海道40番目の宿駅だった鳴海宿は、絞りを買い求める客で賑わいました。また、鳴海宿の隣の有松は、1608年(慶長13)に知多郡から移住してきた竹田庄九郎らによって開かれ、宿泊施設はないが休息ができる茶屋集落あるいは間宿として発展しました。