知る / 城外の発展

築城と城下町の形成、清須越

清須越と碁盤割の城下町

万治年間名古屋絵図の画像
万治年間名古屋絵図
当時の清須村を描いた絵図の画像
当時の清須村を描いた絵図(『春日井郡清須村古城絵図』名古屋市蓬左文庫蔵)

家康が九男・義直を清須城主として城の大修理を計画した際、家臣の山下氏勝は名古屋への城の移転を進言します。低地の清須は洪水や水攻めに合う恐れがあり、その点、名古屋は台地であり、熱田の港も近いため交通の便がいいという提案でした。
家康は、山下の進言を受けて名古屋城の増築を決断。同時に清須の町をまるごと名古屋へ引っ越す「清須越」を計画しました。当時の名古屋は人々の集落が点在し、西部を通る鎌倉街道を利用する旅人や熱田宮への参拝者が行き交う地域でした。1610年(慶長15)に清須越が始まります。築城関係者、武士、刀や鉄砲の職人たち、さらに、社寺、町人、呉服・米・塩・瓦などの商家、質屋まで。約60000の人と約100の寺社、67の町が、すべて名古屋へと移されたのです。

家康は、清須越に向けて名古屋城を中心とした城下町の構造を練りました。城下町は、北側が広い逆三角形のエリア。城を台地の北西の端に置き、武家地、町人地、寺社地をそれぞれ配置しました。三之丸の南側を碁盤の目のように正方形で区切った「碁盤割り」の地域が町人地とされました。このレイアウトは、名古屋城の城下町の特徴のひとつです。町人地の東と南に武家地、その外側に寺町をつくりました。1613(慶長18)年には、武士や町人の住居が定まります。短期間のうちに事業を完了させ、家康の手腕が世に示されました。
家康のつくった町割りと現在の名古屋市中心部とを照らし合わせるとほぼ一致します。本町通、広小路、四間道といった今も残る通りもこの時期に整備されたもの。名古屋の街の原型は400年前に家康によってつくられたといえるでしょう。