名古屋城について / 城外の発展
堀川と木曽御領、ものづくり
堀川と木曽檜、城下町発展の礎
名古屋城築城前に掘削されたのが、熱田湊と名古屋城下を結ぶ堀川です。
堀川を通って木曽檜などが運ばれ、城下町が建設されました。
築城に携わった職人たちは名古屋に残り、今に続くものづくりの礎ともなりました。
内陸部にある城下町へ材木や食料などの大量の物資を運ぶためには水運の手段が必要でした。1610年(慶長15)、家康は名古屋城の築城と同時に、福島正則を中心に熱田湊と名古屋城下を結ぶ人口の川の掘削を命じます。これが、今も名古屋の街を流れる堀川です。水運による城下町の発展だけでなく、軍事的にも重要な役目を果たす動脈と考えられていました。名古屋城の西側の巾下、辰之口を起点に、広井、日置、古渡、そして熱田へと南下していく全長7.24kmのルート。川幅は23.6mから94.6mありました。工事は石垣普請前には完了。福島が請けもった白鳥周辺は福島の官名になぞらえて当初は「太夫堀」と呼ばれていました。堀川掘削の中心人物だった福島の功績を称え、今も納屋橋の欄干には、三英傑の家紋とともに福島の家紋を見つけることができます。
堀川を使って様々な物資が城下へと運び込まれました。城や様々な建物に用いる木材もそのひとつ。現在の熱田区白鳥あたりには「白鳥御材木役所」が設けられ、材木の管理や払い下げを行いました。材木の大部分は木曽檜。木曽の山から木曽川を使って八百津(岐阜県八百津町)へ流し、いかだを組んで海を渡り、熱田から堀川を上る。良質な檜が名古屋の町を作るために集められたといいます。一方で、こうした高価な木材で城を建てた職人の多くが、そのまま名古屋にとどまりました。彼らの技術は、城が出来た後もこの地の産業の発達に寄与したといわれます。近代以降、そして今にもつながる、ものづくりで名高い地域の礎となったのです。
この城下町の建設によって、尾張徳川家の料地であった木曽(長野県木曽郡)、裏木曽(岐阜県中津川加子母、付知、川上)では、木曽檜をはじめたくさんの木が伐採されました。1665年(寛文5)、尾張藩は森林資源保護を目的とした林政改革を実施します。こうした取り組みもあり、現在は樹齢300年以上の木が多く育つ山になりました。本丸御殿復元の際も、多くの木曽檜が必要とされましたが、2008年(平成20)から「市民の森づくり」事業の一環として1万本を超える植樹も行ってきています。