お城note

名古屋城をつくった木のおはなし 〜岐阜県中津川市 裏木曽を訪ねて(2)〜

名古屋城本丸御殿の復元に使われた木々はどこからやってきたのか?
木材のルーツを探り、岐阜県中津川市を訪ねたお話の続編です。

(第1回の記事はコチラ。ぜひ続けてご覧ください)

400年前の名古屋城築城のときも、21世紀の本丸御殿復元のときも、美しい天然のヒノキが「木曽」「裏木曽」の山々からやってきました。江戸時代には尾張藩の領地となった山と森は、どんな歴史を辿ってきたのでしょう。尾張藩より「山守」という役職を任せられてきた一族の末裔の方にお話を聞きました。名古屋のまちでの暮らしとも深く関わり続ける山々のあり方。私たちはどう向き合っていくといいのか、みなさんも考えてみてください。

裏木曽の歴史の手がかりが眠る山守資料館

すこし昔のお話から始めましょう。

現在の中津川市、かつての美濃国恵那郡に加子母村、付知村、川上村という三つの村がありました。1615年に尾張藩領となったこれらの村は「裏木曽三ヶ村」と呼ばれます。そう、第1回の記事からずっと名前の出ている「裏木曽」エリアに位置する村なのです。

裏木曽の山々が、ヒノキをはじめとする良質な木材の産地で知られていたのは、すでにご紹介したとおり。戦国の世に覇権を握った武将たちも、裏木曽の木々を求めます。1600年代には、無尽蔵に思えるほど豊富な森林資源にあふれ、全国的な築城ラッシュを受け、大量の材木が送りだされました。

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しかし、1700年代になると、そんな裏木曽の木々の枯渇が心配されるように。ちょっと使いすぎてしまったんですね。

そこで、尾張藩は裏木曽の山々を管理する「山守(やまもり)」という役職を現地におくことを決めました。1730年、山守に任せられたのは、加子母村の庄屋だった内木家の10代目彦七。以来、時代が明治へと移り変わる1872年まで142年間、役職名のとおり、内木家の一族が裏木曽の山を見守ってきたのです。

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私たちはそんな内木家の末裔である内木哲朗さんを訪ね、お話を聞きました。哲朗さんは、自宅を「山守資料館」として、山守や裏木曽の歴史・文化を伝えています。資料館には、「内木家文書」と呼ばれる古文書が残され、その数はなんと約4万点。彦七の息子で、2代目山守の武久が書き残してきた日々の暮らしを綴った日記をはじめ、山守の実態を探るとっても貴重な記録が保存されています。内木家所蔵の古文書をもとに、名古屋城が建てられたとき、約7割の木材が裏木曽から切り出されたことも判明しました。

内木家の20代目となる哲朗さんは、専門家と一緒に古文書の解読、分析を進めて、そこから見えてくる江戸時代の裏木曽の暮らしについて発信しています。

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哲朗さんによれば、山守とは裏木曽の山々で、森林資源を守る業務にあたる人。古文書をみていくと、地域の住民との関わりから、当時の暮らしの様子がうかがえるそうです。

「名古屋へ出かける人に『じゃあ、なになにを買ってきて』とお使いを頼むような話があったりするんです。日常的に名古屋と加子母での往来があったことが分かりますし、今と同じようなやりとりが面白いですよね」

古文書の分析は順番に進められている最中で、今後も江戸から明治にかけての裏木曽の姿がはっきりと浮かび上がってくるのでしょう。

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山守がおかれ、江戸時代の育林活動によって裏木曽の山々は、再び豊かな森林資源を蓄えていきます。その後、戦後には住宅建材として再び多くのヒノキが使われ、並行して人工林の育成も進められました。現在、和風住宅の新築も減り、建材以外の多様な活用方法も模索されている裏木曽の木々。未来に向けた道筋のヒントも過去にあるのかも。

「江戸時代にも、ヒノキを育てる一方で、どんぐりの実を拾って集めて利用したり、山と村の境界あたりの土地利用を考えたり、山や森のいろんな活用がされているんですよね。かつてどのように森を育て、活用してきたのか。歴史からの学びもたくさんあると思いますね。長い時間の必要な林業政策に100点満点はないので、次世代へ森をつないでいく面白い林業政策をつくっていけるといい。その点、省力化が求められる現代に、江戸時代のやり方はヒントにもなり得るでしょう。長い時間をかけて森を蘇らせた実績もありますから」と内木さん。

山守資料館を訪れると、そんなお話をたくさん聞かせてもらえます。山や森がどう移り変わってきたかなどなかなか想像しえないこと。でも、山の恵みをみんなが受け取っているからこそ、未来に向けてどんな森を形づくり、守っていくのか、きちんと考えなければと感じました。

名古屋と裏木曽。山と森の力は私たちのまちにも届いている。

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森が守られることで、私たちは材木を得られる他にもたくさんの恩恵を受けています。

例えば、災害に強い地盤づくり。長い時間をかけてどっしりと張られた木の根は、土砂崩れを防いでくれます。あるいは、私たちが口にする水。「名古屋の水はおいしい」とよくいわれます。木曽川によって運ばれてくる水も、辿っていけば木曽・裏木曽の山々を経てやってくるものなのです。

名古屋のまちで暮らしていると中津川の山はちょっと遠くに感じるかもしれません。でも実は、名古屋での暮らしのあちこちに、裏木曽の山々とのつながりが見つけられます。内木さんに、名古屋の人たちへ伝えたいことをお聞きしてみました。

「山や森はずっとあり続けるものです。誰がどのように今の森を維持していくか。山や森の変化は名古屋に暮らす人たちにも少なからず影響を与えます。みなさんに関心を持ってもらいたいですね。日本人は森が好きで、興味を持ってくれる人もたくさんいます。本丸御殿復元をきっかけに始まった「市民の森づくり」も、続けていってもらいたいです。名古屋市の小中学生のみなさんには、長年野外学習で中津川に来てもらっています。実は中津川とつながる機会があることを、もっと知って欲しいですね。まち同士の連携でできることはまだまだあると思います」

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前回の記事でもご紹介した「名古屋市民の森づくり」事業など、中津川へと足を運ぶ機会もあります。実際に裏木曽の森へ足を運ぶと、感じること、考えることがいっぱいあるはず。

中津川市で感じる山を大切に思う心。

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最後にもうひとつ、中津川のスポットをご紹介します。

この写真は「護山神社」。裏木曽の山を護る神様が祀られています。人里近いこちらが前宮、奥宮は前回の記事でご紹介した裏木曽の山深い場所に。1800年代に神社が設けられ、伊勢神宮の式年遷宮の御神木は、山から切り出された後に一晩ここに祀られてから運び出されます。毎年、前宮と奥宮で例大祭が開かれ、今でも裏木曽の山々に関わる人たちにとって大切な場所となっています。なお、境内には木曽ヒノキ備林の「御神木」だった初代大ヒノキの年輪板が保存されています。

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今も昔も山や森を通じて名古屋とつながる岐阜県中津川市。江戸時代に名古屋の礎となった木々が生まれた場所へ、足を運んでみてはいかがですか。

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Text:Yuta Kobayashi Photo:Takayuki Imai

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「山守資料館」

尾張藩からの任命を受けて山守の職務を果たした内木家。同家20代目・内木哲朗さんによって、先祖代々の屋敷が資料館として開かれています。4万点ともいわれる古文書「内木家文書」をもとに紐解かれた山守や裏木曽のリアルな歴史を知ることができるでしょう。江戸時代から現在にいたる林業の手法の変遷も紹介されています。訪問をご希望される場合は、必ず事前にお問い合わせください。