お城note

肥前名護屋城×尾張名古屋城

みなさんは、「なごや」という名前の城が名古屋城のほかにあることをご存じでしたか?
かつて佐賀県唐津市に「名護屋城」という漢字一文字違いの城が存在していました。
名護屋城下には日本中の150を超える武将が陣を構え、一時は20万人以上の人々が暮らし、さながら日本の首都のような場所だったと言われています。実は、この名護屋城、尾張ゆかりの天下人豊臣秀吉と深い関係があるお城なんです。
今回は、名古屋から飛び出し、名護屋城のあった佐賀県唐津市へ。唐津くんちで出展した名古屋城ブースの様子もレポートします。

海の向こうは大陸。玄界灘に面した唐津市と肥前名護屋城

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今回訪れた唐津市は、佐賀県の北西部に位置する街。佐賀市についで2番目に大きな都市です。約11万人が暮らし、江戸時代には唐津藩の城下町として栄えました。海沿いの高台には唐津城が街を見下ろし、日本三大松原の一つ、虹の松原が美しい景観を生んでいます。
唐津市街地から17キロほど北西に進んだ海沿いに「佐賀県立名護屋城博物館」と「名護屋城跡」があります。

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佐賀県立名護屋城博物館

かつてこの地に、豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として築いた名護屋城がありました。

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1592年から秀吉の死により撤退する7年間のみ生まれた城下町で、当時は全国から150以上の大名が集まり、陣屋が築かれ出兵に備えていました。武士だけでなく、京都の商人、宣教師や明の使節なども訪れ、約20万人の人々が暮らしていたとされています。

名護屋城と名古屋城

さて、名護屋城はどのようなお城だったのでしょうか。佐賀県立名護屋城博物館の学芸員、久野哲矢(ひさのてつや)さんに伺いました。

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佐賀県立名護屋城博物館の久野さん

「名護屋城は豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として築いた城です。建物はもうありませんが、城の石垣や徳川家康や前田利家といった大名たちが暮らした陣屋跡などが残されています。安土桃山時代の貴重な城郭の遺構として、国の特別史跡に指定されています。」
当時は最新の技術を使って作られたお城だったようで、地方の大名は石垣の積み方など技術を習得し、故郷に持ち帰ったとされています。
一方、名古屋城は徳川家康が征夷大将軍となった後、西国を中心とした20家の大名を動員して築いた城。飛躍的に向上した築城技術と豪華な装飾が融合された、近世城郭の最高傑作です。

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「名護屋城の築城から約30年後に名古屋城が築城されますが、その間、あっという間にお城の技術は発展しました。名古屋城が近世城郭の完成形としてあるとするならば、名護屋城はその時代の最先端の技術を集結した近世城郭のはじまりを象徴する場所だと言えます。自然石を用いた堅牢で荒々しい石垣の表情もまた名護屋城の魅力です」と久野さん。
遠くの地のお城であっても歴史の流れにそれぞれ存在し、つながっていると思うととても感慨深いものがあります。

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崩された石垣も、名護屋城の歴史を伝える、貴重な史跡

当時は大坂城に次ぐ大きなお城だったとか。戦国時代が終結し、もはや合戦が行われない国内で、どうしてこのような大きなお城を作ったのでしょう。そんな素朴な疑問にも答えていただきました。

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「おそらく当時の人は豊臣秀吉に直接会ったり、見たりすることがほとんどなかったと思われます。ですが、お城だけはいつでも、どこでも見ることができる。名護屋城を訪れた武将たちは"お城が立派だ"とたびたび記録を残しているのですが、そういった意味では、秀吉の力を示すという意図があったのではと思います。」
たしかに、名古屋城も徳川家康が徳川家の威信を示すシンボルとして築城させたものです。今は権力者の誇示という役割はありませんが、地域の誇りある文化として存在しているのは変わらないのかもしれません。

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肥前名護屋城図屏風が飾られた名護屋城博物館内

名護屋に結集した大名たちは、出兵に備えていただけでなく、茶の湯や能など文化交流もさかんに行っていました。そして名護屋で得られた文化や技術を故郷に持ち帰り、おのおのの地で発展させていきました。つまり、名護屋は戦地へ向かう陣でありながら、文化交流の地として栄えていた文化都市でもあったのです。

はじまりの名護屋城。

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はじまりの名護屋城。

そこで、文化のはじまりの地として名護屋が大きな役割を果たした意義を込め、佐賀県と唐津市で2020年より「はじまりの名護屋城。」というプロジェクトをスタート。

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現地ではVRでお城を見ることもできる

陣跡の整備や豊臣秀吉ゆかりの「黄金の茶室」「草庵茶室」の復元のほか、「名護屋城大茶会」などのイベントの開催や大人気歴史ゲームとコラボした陣跡周遊サインの設置など、さまざまなプロモーションを行なっています。

「なごや」つながりで名古屋城と名護屋城が交流

名護屋と名古屋。一文字違いのお城の名前ですが、由来について少し深堀りしてみました。調べてみると、名護屋を治めていた名護屋氏は、本来の姓は藤原で、「名護屋」の地を領地としてもらってから名護屋を姓としたようで、もともと名護屋という土地があったようです。いまでも、唐津市内には「名護屋」や「名古屋」姓の人達が、意外と多くいらっしゃいます。
一方、名古屋城はというと、もともと「那古野城」があった地に建てられたという経緯があります。土地が那古野という地名だったことからつけられた城です。

実は、「名古屋」や「名護屋」という地名は全国各地にあるのだとか。

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唐津市の黒田さん

唐津市肥前名護屋城室副室長の黒田裕一(くろだゆういち)さんに詳しく伺いました。
「"なごや"は、漁労道具を入れる小屋"魚小屋(なこや)"や、漁師を表す"魚子(なご)"が利用する施設の"魚子屋(なごや)"から来ているのではという説があり、実際、『名古屋』『名護屋』といった場所が各地に見られます。」
他にも、大分県佐伯市の「名護屋」や高知県土佐市の「名古屋」、新潟県佐渡市の「名古屋」、静岡県伊豆の国市の「奈古屋」などいろんな地域に見られ、「なごや」は、愛知県の名古屋だけのものではなさそうです。
さらには、千葉県成田市には、中世のお城の「名古屋城跡」もあります。内陸部の地名として残る場所もあり、海と陸の「なごや」の由来は、別であったことも考えられます。

せっかくなので、「なごや同盟」を組んで交流を深めたい、そんな気持ちで生まれたのが名古屋城と名護屋城の交流です。

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名古屋城春まつりでの名護屋ブース

交流がはじまったのが2023年。名古屋城の春まつりが開催された際、唐津市から名護屋城PRのブースが設置されたことが始まりです。その後、名古屋城からは唐津くんちと春の名護屋城大茶会でお邪魔しています。

今回は唐津くんちに参加した時の様子をご紹介します。

唐津くんち出展リポート

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お城noteスタッフは 1123日と唐津くんちに行って祭りを楽しんできました。
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日の夕方、唐津駅につくと、人の山、山、山!お祭りを楽しみにしていた人々でごった返していました。
まっすぐ歩くのも一苦労なほど。歩いていると笛の音とともに「エンヤ、エンヤ!」という掛け声がきこえてきました。曳山(やま)の登場です。

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たくさんの人がスマホで撮影するなか、堂々と曳山が登場

子どもから若者、年配の人あわせて100人近くが曳山を引き、市内を練り歩きます。闇夜に光る曳山はなんとも妖艶で幻想的。迫力満点です。

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曳山に人が乗るようになったのは明治時代からとのこと

曳山は全部で14台。わたしたちが注目したのは13番目の「鯱(しゃち)」です。
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水主町の曳山「鯱」。真紅の体と金の縁取りが光る

明治初期、曳山を作る際に町の惣代が尾張名古屋城の金鯱を見て発想を得たとされています。ここでもご縁があったとは嬉しいですね。
また、輪島塗を使って修復しているご縁から、輪島復興祈願を掲げて巡行していました。天高くそびえる尾びれがとってもかっこいいです。目力があります。
翌日はさらに人が増え、押し寿司状態。15時には祭りが最高潮に盛り上がる「西の浜御旅所」へ。浜辺から道路へ曳山を引く「引き出し」を見ました。

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御旅所に集結した曳山

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御旅所から出てきた鯱

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鯛の曳山はなんとも愛くるしい顔立ち

御旅所は砂地のため、2トン近くある曳山を曳くのに物凄い力が必要です。
「曳け曳けー」と大人がいうと小学生くらいの子どもたちが元気にエンヤ!エンヤ!と掛け声をあげながら綱を引き、若い旦那衆は「うおーーーー!」と叫ぶ。とにかくかっこいい!勇壮な曳子たちに圧倒されました。子どもたちもきっとそんな大人たちに憧れるのでしょうね。

さてさて、名古屋城ブースは台風の影響で1日目はブースを開くことができず、翌日からのスタートとなりました。

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「愛知県の名古屋城です。パンフレットお配りしています」と元気にお声かけ。
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できたての名古屋城法被を着てPR。たくさんの方が立ち止まってくださいました。
「昔名古屋に住んどったとよ」と懐かしく駆け寄って話してくださる人。「名古屋からわたしたち来たんです」と同郷を見つけて喜ぶ家族連れ。「え?なごや城ってそっちの?!」と驚く唐津の方もいらっしゃいました。
中にはご自身のお城ノート(スタンプ帳)を見せて「また名古屋城にも行きますよ」とおっしゃってくださったお城好きの方もいらっしゃいました。
「名古屋城のお祭りにも行ったことがあるよ」と教えてくれた方も。
こうやって名古屋から離れた場所でご縁が重なることに感慨深いものがあります。
この日は名古屋城公式SNSX(旧Twitter)、InstagramFacebook)をフォローしてくださった方に缶バッチをプレゼントしました。

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お子さんたちも喜んでくださったので嬉しかったです。
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お祭りも楽しみながら、唐津のみなさんと交流が出来た最高の一日でした。また名古屋城でみなさんと会えるのが楽しみです。

<取材協力>
佐賀県立名護屋城博物館
唐津市地域交流部 肥前名護屋城室

Text:Yaeno Deguchi Photo:Kaori Yokoyama

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「黄金の茶室」
茶の湯が隆盛した安土桃山時代ですが、名護屋城でも秀吉だけでなく多くの大名たちが交流の手段として茶の湯を嗜んでいました。
なかでも秀吉の黄金の茶室は特別な時に使われた茶室。名護屋城でも秀吉が大名を一堂に集めた茶会や海外の使節をもてなす際に利用されたという史料も残されています。名護屋城博物館では当時の黄金の茶室を復元。ここで実際に茶室に入ってお茶をいただき、学芸員の解説が聞ける特別な体験プログラムを開催しています。
また、秀吉が愛した茶の湯を再現しようと、令和7年3月22日に名護屋城跡を舞台とした第4回名護屋城大茶会が開催されます。お茶や能、鷹狩などの伝統文化が集結するほか、秀吉ゆかりのグルメなどが登場するマルシェも開催し、かつての城下町のように城跡がにぎわいます。また、人気歴史学者の磯田道史さん、千田嘉博さん、平山優さんが初めて勢ぞろいし、唯一無二のスペシャルトークも行われます。