名古屋を代表するさまざまな伝統工芸品の多くは江戸時代に誕生しました。絞りのまち・有松で受け継がれる「有松・鳴海絞」もその一つ。そんな歴史ある「有松・鳴海絞」の技を用いた、名古屋城オリジナル法被が完成しました!
絞りを手がけたのは、伝統工芸士によって育成された若手の絞り手の皆さん。なんでも、有松では十数年前から「有松・鳴海絞」の後継者を育成する事業に取り組んでいるそうです。伝統の担い手育成にかける思いを、オリジナル法被ができるまでのあらましとともにお聞きしました。
尾張藩の特産品として保護された有松の絞り
まずは「有松・鳴海絞」の歴史を簡単にご紹介しましょう。江戸時代の初め、尾張藩は東海道筋に新たな集落として有松を開きました。その目的は東海道の治安改善だったのですが、有松は鳴海宿と距離的に近く、稲作に適さない丘陵地帯で、宿場町としても農作地としても大きな発展は見込めませんでした。
そんな有松の発展の糸口を見出すべく奮起したのが、移住者のひとりである竹田庄九郎(たけだしょうくろう)です。若き日の庄九郎は、名古屋城築城に従事していた九州・豊後(現在の大分県)の職人が使っていた手ぬぐいに注目。手ぬぐいに施されていた「豊後絞り」にヒントを得て、有松で絞りの技法を開発しました。
そして絞り染めの反物や手ぬぐいは、特産品として広く知れ渡ることになります。人気を受け、鳴海など周辺地域でも絞り染めが生産されるようになると、尾張藩は他地域における絞り染め生産を禁止し、有松に営業独占権を与えました。まちを支える大切な産業として保護したのです。
独占権は幕末に解除されたものの、有松は明治以降も新技法の開発と特許取得を進めるなど、絞り染めのまちとしての地位を確立し続けてきました。1975年に「有松・鳴海絞」の名称で国の伝統的工芸品に指定されることになったのも、元をたどると尾張藩の手厚い保護が寄与していたといえますね。
産地で育まれた技を次世代に継承するために発足した育成事業
オリジナル法被のリニューアルが検討された際、「名古屋の伝統文化をPRできるような一品に」との意見が上がったことから、「有松・鳴海絞」の誕生と発展に深く関わる名古屋城、そして尾張藩の歴史的な文脈を汲んだオリジナル法被の製作プロジェクトが発足。オリジナル法被を製作するにあたり、ありまつ中心家守会社のコーディネートのもと愛知県絞工業組合および組合主催の「伝統工芸士による絞り技術者育成事業(以下、育成事業)」と連携することになりました。
かつての職人は「一人一芸」として、一つの技法を極めることに心血を注ぎ、100を超える技が生み出されたと伝わっています。しかし職人の減少に伴い途絶えてしまう技も増え、現代に残る技は約70といわれています。
現在活躍する絞り職人は、複数の技を習得しています。その点のみに目を向ければ、「一人一芸」の時代と比べ、技を継承する人は増えているかもしれません。ですが現役の職人の多くは70代、80代と高齢の方が中心。若い担い手が育たなければ、遠くない未来に地域が育んできた伝統の技が失われてしまいます。
400年以上の歴史がある「有松・鳴海絞」をこれからの未来に残していくために、今できること。
それは、技を継ぐ担い手を育てること。
2009(平成21)年に育成事業がスタートした背景には、このような「有松・鳴海絞」の伝統技術の継承にかける強い思いがあったのです。
伝統工芸士をはじめ地域全体で若手技術者の成長を支える
育成事業では、絞り染めの担い手を志願する参加者に対して、伝統工芸士が直接技術を指導します。組合副理事長を務める名桐秋雄(なぎりあきお)さんも指導者のひとり。名桐さんによると「緑区など有松に馴染みのある方だけでなく、市外在住の方の参加も少なくない」とのこと。年齢は30代から50代が多く、最近では20代の参加もあるそうです。
3年間ほどかけて基礎から段階的に学んだ生徒は、5年を目安に習熟度に応じて絞りの工程を仕事として任されるようになります。名桐さんは「育成事業を通じて5年以上学び続けている生徒さんは、今だと60人ほど。育成事業を継続し、技術者を安定的に輩出できているのは全国的にも稀だそうです」と言います。
名桐さんが「育成事業を支える欠かせない存在」と話すのが、事務局の伊藤美恵子(いとうみえこ)さんをはじめとする運営スタッフの皆さん。伝統工芸士と生徒の間に入り、技術習得のサポート役も務めています。「何かのきっかけで絞りの魅力に触れ、『継続的に絞りを学んで技術を身につけたい』『後継者不足の改善の一助になりたい』と熱意を持って参加される方もいらっしゃいます。けれど指導する先生は皆さんその道一筋の職人さんですから、なんでも簡単にできてしまいます。生徒さんがどこでつまずいてしまうのか、ポイントを押さえてスピード調整したりアドバイスに入ったりしています」と伊藤さん。名桐さんいわく「僕らよりよっぽど厳しいときもあるくらい(笑)」だそうです。
生徒に対して指導する技は縫い巻き上げ、三浦絞り、横引き鹿の子絞りの3種類。伊藤さんいわく、これらは絞りの基礎でありながらも習得が難しく「有松・鳴海絞に関していえば、必ずしも現代の需要とマッチしているとはいえない技法」もあるとのこと。しかしながら「絞りの技術を残していくためには、これらの絞りの技を習得することがとても重要であり、育成事業の核といえます」と続けます。
名桐さんも「揺るぎない基礎が、伝統を支えているんです」ときっぱり。「かつてさまざまな技が生まれてきたのも、職人たちが徹底して基礎を習得していたからこそ。きっちり教える責任は大きいです」と目を細める名桐さんの言葉を受け、伊藤さんも「基礎は地味に見えますし、難儀されている方も少なくありません。それでも、基礎を身につけられることに魅力を感じ一生懸命取り組む生徒さんも多いんですよ」と笑顔を見せます。
伝統工芸士が育成した若手職人が絞りを担当、他地域との連携も
オリジナル法被製作プロジェクトにおいて、組合や育成事業などとの取りまとめ、絞りの図案の発注や生地の調達など各工程の調整や進行管理を担当したのは、山上正晃(やまがみまさてる)さん。「有松・鳴海絞」の製造・卸販売会社「山上商店」の3代目です。
オリジナル法被は陣羽織をベースにした袖のない仕様とし、生地にはオーガニックコットンを採用。育成事業で技術を習得した若手職人たちが、1着1着絞りを手がけ、下部には蜘蛛絞り、背面には金鯱をあしらいました。
金鯱は、平縫い締め、折り縫い、巻き上げの3種類の絞りで表現され、過去に組合で作成した図案が元になっているとのこと。若手職人でも扱いやすいよう、ひげの本数を減らすなどしてブラッシュアップしました。名桐さんたちは「それでも細かな描写が多くて大変だったろうから、皆さんよくやってくれました」と目を細めます。
絞りは固く締めていることが重要ですが、絞りを進めていくと柄の全容がわからなくなってしまうため、柄を取りこぼさないように、計画的に縫う・絞る工程を考えるのも職人に求められるものだといいます。
絞り染めの表現と併せて注目していただきたいのが、「名古屋城」と書かれた衿部分。濃淡がある絞り染めの印象を「柔」とするなら、衿部分の「名古屋城」のくっきりとした文字は「剛」の印象を受けます。
衿部分を手がけたのは名古屋市北区の手捺染職人。山上さんによると、普段は神社の大幕や幟(のぼり)の製造を請け負っているそうです。「しっかりしたものをつくるために、専門とする職人さん、職人さんがいる産地と連携することは珍しくありません」と山上さん。製造工程が細かく分業されているのも「有松・鳴海絞」の特徴の一つですが、製品の内容に応じて異なる産地と連携し、品質を追求してきたのですね。
受け継いだ技で産地にお返しする
伝統工芸士の認定を受けるには、12年以上の経験を有し、実技・知識・面接試験をクリアする必要があります。あと数年したら、育成事業を通して技術を習得した若手職人の中から、伝統工芸士に認定される人も出てくることでしょう。改めて、伝統を継承することは一朝一夕ではかなえられないのだと、実感します。
「産地で経験を積み、仕事を受け、応えていく。それが後継者としての若手の皆さんの使命であり、技術を磨く上で曲げられない根幹となるものだと思います。『産地にお返しする』という意識を持つようにと、言い続けています」と伊藤さんはまっすぐに話します。名桐さんも「技術で身を立てるのは簡単なことではない。それを十分に知っているからこそ、若手の技術を高めていくことが、われわれの務め」と続けました。
オリジナル法被は、名古屋城開門時のお客様のお出迎えや城内外のイベントで名古屋城総合事務所職員が着用します。尾張藩、そして現代の名古屋が守り受け継ぐ技を、ぜひ目にしてみてください。
Text:Hidemi Ito Photo:Takayuki Imai