催し

西の丸御蔵城宝館企画展

特別展 「守山の御寺 大森寺の宝物」

2024年03月02日 ~ 2024年05月07日

特別展 「守山の御寺 大森寺の宝物」の画像

趣旨

 名古屋市守山区にある浄土宗大森寺(だいしんじ)は、尾張藩二代藩主徳川光友(みつとも)公の生母である歓喜院(かんぎいん)(お尉[じょう]、乾[いぬい]の方、寛永11年[1634]没)の菩提寺として創建され、尾張徳川家の庇護を受け、崇敬を集めてきました。創建時の建物は明治初年に焼失しましたが、現在も尾張徳川家ゆかりの品々をはじめとする数多くの美術工芸品や歴史資料が伝えられています。本展では、多くが初公開の名品である大森寺の宝物を公開し、その歴史を紹介します。

【興旧山歓喜院大森寺(こうきゅうさん かんぎいん だいしんじ)】
 二代藩主光友は、生母歓喜院の菩提を弔うために、寛永14年(1637)に江戸小石川伝通院(でんづういん)内に大森寺の前身となる廟所を建立し、歓喜院と号しました。寛文元年(1661)に歓喜院の出生地である尾張国大森村に廟所を移転し、興旧山歓喜院大森寺と寺号を改めて創建されました。
 大森寺は「尾州御寺(びしゅうみてら)」の1つとして、江戸時代から尾張徳川家による手厚い庇護を受けました。尾州御寺とは、尾張徳川家と徳川一門の菩提寺で構成された尾張国内で最高格の浄土宗寺院を指します。明治になり、尾張徳川家の仏事を勤行するため、建中寺・相応寺・大森寺・高岳院・性高院の五寺で組織されました(のち清浄寺を加えて六寺となります)。江戸時代には尾張藩主と直接まみえることを許された格式ある寺院でした。光友と歓喜院の菩提を弔う寺院として、現在にいたるまで追善供養がなされています。

会期

令和6年3月2日(土)~5月7日(火)

※会期中、展示替えをいたします。展示状況は、出品目録(PDF)にてご確認ください。

会期中は無休(ただし、催事等で変更になる場合があります)

主催

名古屋城総合事務所 名古屋城調査研究センター 

主な出品資料

出品目録(PDF)

「興旧山大森寺草創記」 然誉義典 1幅 元禄7年(1694)


「徳川光友黒印状」 徳川光友 1枚 寛文11年(1671)


「徳川光友黒印状」 徳川光友 1枚 元禄3年(1690)


「深誉吞益上人坐像」 1躰 元禄7年(1694)


「十二月花鳥図押絵貼屏風」 岩井正斎 6曲1双 寛政6年(1792)カ


「竹雀図」 徳川光友 1幅 江戸時代 17世紀後半


「山水図」 徳川光友 1面 江戸時代 17世紀後半


※ いずれも大森寺蔵


※ 図版はいずれも武井隆太郎・佐野真規撮影

徳川光友黒印状(寛文十一年).jpg

徳川光友黒印状
とくがわみつともこくいんじょう
寛文11年(1671)

 大森寺に伝わる尾張藩主からの黒印状のうち、光友が発給した1点です。尾張藩では、藩主が代替わりで名古屋に初入国した際に黒印状を発給し、所領安堵するのが慣例でした。大森寺には、光友が寛文11年に寺領を寄進して以来、16代義宜(よしのり)までの黒印状が12通伝わっています。

深誉上人座像.jpg

深誉吞益上人坐像
しんよどんえきしょうにんざぞう
江戸時代 元禄7年(1693)

 大森寺二世の深誉呑益(?~1693)の座像です。老年の僧侶の姿で、袈裟をまとい、左腕に数珠をかけて合掌し、曲録(きょくろく=椅子)に座っています。袈裟は黒漆が塗られ、頭部や両手に彩色の跡が残っています。
 椅子の座面裏にある墨書から、元禄7年の深誉入寂後、大森寺三世の然誉義典(ねんよぎてん)が師の功績をたたえ、深誉の姿をあらわした肖像彫刻を製作したことが分かります。
 深誉は江戸出身で、延宝元年(1671)開山上人信誉大龍(しんよだいりゅう)の入寂後に大森寺二世となりました。元禄3年(1690)の常念仏堂開基では光友から寺領百石を加増されたため、位牌に「中興」の銘があります。

竹雀図.jpg

竹雀図
ちくじゃくず
徳川光友筆 江戸時代 17世紀後半

 小さな雀の重みで竹の小枝がしなう一瞬を略筆で描いています。筆数は惜しみつつ潤いのある墨で簡潔にモチーフを描く画風は、玉澗(ぎょっかん)や牧谿(もっけい)などの中国宋元画人の様式を想起させます。尾張徳川家は、室町将軍家に秘蔵されていた玉澗筆「遠浦帰帆図(えんぽきはんず)」や伝牧谿筆「洞庭秋月図(どうていしゅうげつず)」などのいわゆる瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)の名品を家康から与えられており、光友が中国画を吸収し作画していたことをよく示しています。

十二花鳥図押絵貼屏風(右隻).jpg

(右隻)

十二花鳥図押絵貼屏風(左隻).jpg

(左隻)

十二ケ月花鳥図押絵貼屏風
じゅうにかげつかちょうずおしえばりびょうぶ
岩井正斎(いわいせいさい)筆 六曲一双 紙本墨画淡彩 江戸時代 18世紀後半

 各時節の花鳥を描く十二図を屏風に貼り込んだものです。岩井正斎(?~1801)は、木挽町狩野家(こびきちょうかのうけ)九代養川院惟信(ようせんいんこれのぶ)の門人とされ、尾張藩八代藩主徳川宗勝(むねかつ)の第六子松平勝長(まつだいらかつなが)(1737~1811)に仕えました。名古屋城天守から見た景色を絵巻に描いたことでも知られています。正斎最晩年の貴重で洒脱さと写実性をあわせもつ優品です。