催し
イベントアーカイブ「上空のまなざし、地上の記憶~名古屋城が燃えた日~」
2025年08月09日

80年前、名古屋空襲で焼失した名古屋城。
その日なにが起きたのか、史料をもとに詳細を東海中学・高校 非常勤講師 西形久司さんとともに、明らかにします。
日時
2025年8月9日(土)10時〜11時30分
会場
本丸御殿孔雀之間(本丸御殿ミュージアムショップ前で受付)
※会場は和室のため、座布団にご着席いただきます。机の用意はございません。
講師
西形 久司 / 東海中学・高校 非常勤講師
料金
500円(別途、名古屋城入場料が必要です)
定員
35人
申込方法
7月16日(水)から大ナゴヤ大学HP内ページ よりお申し込みください。
当日スケジュール
9:30 受付
10:00 講座開始
11:30 終了
主催:名古屋市(名古屋城総合事務所)
運営:大ナゴヤ大学
2025年8月9日、名古屋城本丸御殿孔雀之間で「上空のまなざし、地上の記憶 〜名古屋城が燃えた日〜」を開催しました。講師を務める名古屋空襲研究者としても活動する、東海中学・高校非常勤講師の西形久司さんです。
講座の冒頭、「物事の奥行きを捉えるには、両方面から見ること大切」と語った西形先生。上空=アメリカ側のまなざし、地上=日本および名古屋での出来事のそれぞれを取り上げ、名古屋城の天守が焼失するまでの経緯を解説いただきました。
まず、戦時中のアメリカはどのように空襲を計画し実行したのか?空襲の記録をもとに、時期ごとのアメリカの狙いなどを、身振り手振りを交えながら解説いただきました。
アメリカの戦術が大きく転換したのは1945年3月頃。アメリカは夜間戦闘力が弱いという日本の防空体制の弱点を見抜き、夜間での市街地空襲に切り替えました。これにより起こったのが、東京・名古屋・大阪・神戸での大空襲です。
空襲を実行するアメリカの究極の狙いは「国民の戦争への意欲を奪うこと」。これを果たすため、空襲によって消火設備で手に負えないような激しい火災を都市中心部で起こす「アプライアンス火災」を目論んだのです。無駄なく効率的に狙いを達成するため、アメリカは人口密度に応じて地域を区分し、目標地域や焼夷弾数を割り出すなど徹底的な研究により計画を立案し、実行しました。3月の空襲では人口密度が高い名古屋城下町を中心とする「ゾーン1」、5月の空襲では工場や倉庫、湾港を含む名古屋市南部地域「ゾーン2」を目標としました。5月の空襲では「確実にゾーン2を狙う」との思惑から、目標を正確に定めやすい日中での空襲実行となったそうです。
しかし、疑問が浮かびます。5月の空襲での目標である「ゾーン2」は名古屋城から遠く、そもそも建造物が密集していない名古屋城周辺を標的にしても、アプライアンス火災の発生は期待できません。ではなぜアメリカは、名古屋城に焼夷弾を落としたのか。要因となったのが、日本側の激しい反撃でした。爆撃機は爆撃航程(爆弾投下目標を正確に捉えるための特定区間)に入ると操縦桿はロックされ、焼夷弾を落とすとロックは解除されます。予想外の反撃に対処するためにはロックを解除する必要があり、予定よりも手前で焼夷弾を投下せざるを得なかったというわけです。西形先生は「後続機も煙によって目標が確認できず、攻撃目標ではない名古屋城にも投弾することになった」と話しました。
焼夷弾が落下した地上では、必死の消火活動が行われていたとの記録が残っています。しかし、消火活動が開始されたのは、天守での火災発生から約1時間後。記録によると、門が焼け落ちたことで行く手を阻まれたため、遅延が生じたと考えられています。そして、名古屋城天守は石垣を残し、姿を消すことになりました。
時を経て、2024年。名古屋市は名古屋城天守を失った5月14日を、太平洋戦争中の名古屋空襲の犠牲者らを追悼する「なごや平和の日」に制定しました。東邦高校の生徒による約10年間の働きかけが後押しとなり、西形先生も「名古屋空襲の犠牲者を追悼する日(仮称)協議会」の会長として制定に尽力したといいます。
戦後80年。戦争体験者の声を耳にする機会が減少傾向にあり、戦争はどこか「遠いもの」として捉える人も増えつつあるのではないかと感じます。そんな現代だからこそ、残された記録などを頼りに、戦争で何が合ったのかを知り、理解しようと努めることが、戦争を繰り返さないためには必要不可欠なのでは。今回の講座を通して、このように考えることができました。
カメラ・レポート/伊藤成美