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天守閣木造復元

木造復元の趣旨と意義

焼失前の名古屋城天守閣と本丸御殿の画像
焼失前の名古屋城天守閣と本丸御殿

名古屋城は、徳川家康の命を受けた豊臣恩顧の諸大名による「天下普請」によって、築城が行われました。1612年(慶長17)に天守閣が完成すると、御三家筆頭・尾張徳川家の居城として長く栄え、明治維新も乗り越えて、1930年(昭和5)には城郭として国宝第一号に指定されます。

実に330年を越えて、この地のシンボルとして愛されてきた名古屋城ですが、1945年(昭和20)の空襲によって天守閣をはじめ多くの建造物を焼失します。それでもなお、1952年(昭和27)には、往時の姿をよく伝える国内屈指の城郭として、国の特別史跡(※)に指定されました。

その後、市民の多大な寄附により1959年(昭和34)に鉄骨鉄筋コンクリート造の天守閣を再建。外観は旧天守閣を再現し、内部は博物館として歴史資料や模型などを展示してきました。
しかしながら再建から約60年が経過し、設備の老朽化や耐震性の確保などへの対応が不可欠となりました。
一方で、名古屋城には詳細な実測図など豊富な史料が残されており、史実に忠実な復元が可能と言われています。

これらを鑑み、名古屋市では特別史跡名古屋城跡の本質的価値をより広く内外に発信するために、天守閣の木造復元を決定し計画を進めています。

※特別史跡とは、文化財保護法により指定された史跡のうち、特に価値が高いと認められるもので、国宝と同格とされます。

日本最大を誇った天守を往時のままに

江戸時代初期に築城された、名古屋城(1612年)、大坂城(1626年)、江戸城(1638年)の天守は、その大きさで他の城郭を圧倒していました。 ところが、江戸城は明暦の大火により、大坂城は落雷により天守が焼失し、再建されることはありませんでした。
一方、名古屋城は戦災により焼失するまで、史上最大級の延床面積を誇った五層五階地下一階の巨大な天守を守り続けてきたのです。
この大天守を往時のままに復元するには、図面などの詳細な史料のほか、木造建築の伝統技術が欠かせません。大規模な木造建築物の築造が減少し、職人技の消滅が危ぶまれる中、天守閣の木造復元は伝統技術を次代へ継承する機会にもなっています。

忠実な復元を可能とする貴重な史料

昭和実測図

昭和実測図の画像

宮内省から名古屋城が下賜(かし)された後、名古屋市は1932年(昭和7)から国宝建造物の細部の計測や拓本作成を行いました。実測調査は第二次世界大戦をはさんで完了 し、清書図282枚、拓本貼付27枚、計309枚の図面が完成しました。天守の図面は大天守56枚、小天守15枚、計71枚です。外観、内部断面や平面、金鯱や金具類に至るまで詳細に調査されています。

昭和実測図については、閲覧サービスページよりご覧いただけます。

金城温古録(きんじょうおんころく)

金城温古録(きんじょうおんころく)の画像

名古屋城は、江戸時代に何度も修理・改築が繰り返されましたが、その度に作成された資料が数多く残っています。その一つが尾張藩士・奥村得義(かつよし) とその養子・定(さだめ)が編集した名古屋城の百科事典「金城温古録」(きんじょうおんころく)です。
1821年(文政4)、尾張藩は得義に名古屋城の調査と記録を命じます。得義は当時の城の状況をこと細かに調べ、膨大な資料の収集や書き写しを進めました。調査と並行し1842年(天保13)に執筆を始め、1860年(万延元)に前半31巻を完成させます。得義の死後は定が引き継いだものの、明治維新で一時中断。ようやく1902年(明治35)に全10編64巻が完成しました。
そこには建物の間取りや柱の位置などが詳細に書き込まれ、空襲で焼失した名古屋城の内部まで知ることができるのです。

ガラス乾板(かんぱん)をはじめとする豊富な写真

ガラス乾板(かんぱん)をはじめとする豊富な写真の画像

江戸時代後期、日本には西洋から写真技術がもたらされます。当時の14代藩主・徳川慶勝(よしかつ)はカメラに強い関心をもち、自ら名古屋城をはじめさまざまな場所を撮影しました。
1864年(元治元)に慶勝が撮影した広島城、大坂城は、わが国初の城郭写真となるほど価値が高いものです。
また、明治維新まで残っていた城郭の多くは、1873年(明治6)の「廃城令」により陣屋も含め200余りが取り壊されてしまいました。この時期、写真撮影技術が普及し、かろうじて何カ所かの城が撮影されましたが、明治維新後に失われた天守で古写真が残るところは29城。この中には、わずか数枚しか写真が残っていない天守も少なくありません。
その中で、名古屋城は明治初期から多くの写真が撮影されました。焼失前の1940、41年(昭和15、16)に撮影されたガラス乾板(かんぱん)写真は、700枚以上現存し、その中で大天守、小天守を写したものが70枚以上存在します。