観る / 本丸御殿

各部屋の紹介

Genkan

玄関

玄関車寄の画像
玄関車寄

本丸御殿を訪れた人がまず通され、対面を待つ場所であり、古くは遠侍(とおざむらい)と呼ばれた建物です。上下四方に屋根や庇(ひさし)を設けた入母屋造(いりもやづくり)で、入口となる車寄は正面に突き出しています。車寄の屋根は薄い木の板を並べた?葺(こけらぶき)で、中央部に丸みを持たせた唐破風(からはふ)という装飾が施され、弓形に美しく反り返った曲線を描きます。中は、一之間(18畳)、二之間(28畳)の二部屋からなり、一之間には床(とこ)や違棚(ちがいだな)もついています。襖(ふすま)や壁は金地の障壁画「竹林豹虎(ちくりんひょうこ)図」が飾られ、虎之間とも呼ばれました。

Omoteshoin

表書院

上段之間の画像
上段之間

1615年(慶長20)の創建時には、最大かつ最も格式の高い間として正式に藩主に謁見する際に用いられました。屋根や庇(ひさし)を上下四方に設けた大きな入母屋造(いりもやづくり)の建物です。上段之間(15畳)、一之間(24畳)、二之間(24畳)、三之間(39畳)、納戸之間(24畳)の5部屋からなり、江戸時代には広間と呼ばれていました。上段之間は藩主の徳川義直が座る部屋で、床(とこ)と違棚(ちがいだな)、廊下側に張り出した出窓のような付書院(つけしょいん)、華麗な襖絵(ふすまえ)からなる帳台構(ちょうだいがまえ)といった正式の座敷飾りを揃えています。

Taimenjo

対面所

次之間・上段之間の画像
次之間・上段之間

藩主が身内や家臣との私的な対面や宴席に用いた部屋です。上段之間(18畳)、次之間(18畳)、納戸(なんど)一之間(24畳)、納戸(なんど)二之間(24畳)の4部屋で構成されています。上段之間及び次之間の障壁画は、「風俗図」と呼ばれ、京都や和歌山の四季の風物や名所、風俗がおだやかな筆致で描かれています。絵師は狩野甚之丞(かのうじんのじょう)と推定されています。黒漆塗(しっくい)の天井板に金箔が貼られた、なんとも豪華な折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)も見どころです。

Jorakuden

上洛殿

一之間・上段之間の画像
一之間・上段之間

1634年(寛永11)、三代将軍家光が京都に向かう途中、名古屋城に宿泊します。それに先立ち増築されたのが、本丸御殿で最も絢爛豪華な「上洛殿」です。家光の部屋となった上段之間(15畳)をはじめ、一之間(18畳)、二之間(22畳)、三之間(21畳)、松之間(20畳)、納戸之間(10畳)からなり、室内の装飾は狩野派(かのうは)による襖絵(ふすまえ)・天井板絵、きらびやかな彫刻欄間、飾金具など、細部まで贅の限りが尽くされました。中でも、当時33歳の狩野探幽(かのうたんゆう)によって描かれた「帝鑑図(ていかんず)」や「雪中梅竹鳥図(せっちゅうばいちくちょうず)」などは、傑作とされています。

Yudonoshoin

湯殿書院

書院の湯殿の画像
書院の湯殿

将軍専用の浴室(湯殿)と、上段之間(6畳)、一之間(10畳)、二之間(10畳)からなる風呂場で、上洛殿とともに寛永期に増築されました。浴室といえども、上段之間を設けた格式高い書院造の建物で、とても大きなものだったことがわかります。また、風呂といっても現在のように湯船はなく、外にある釜で湯を沸かし湯気を内部に引き込むサウナ式蒸風呂でした。「扇面流図(せんめんながしず)」、「岩波禽鳥図( いわなみきんちょうず)」などの障壁画が描かれています。

Kurokishoin

黒木書院

一之間・二之間の画像
一之間・二之間

玄関や表書院と比べ、落ち着いた風情のある黒木書院は、清須城内にあった家康の宿を移築した建物とも伝えられています。本丸御殿のほかの部屋は、総ヒノキ造りであったのに対し、この部屋には良質な松材が用いられており、その用材の色から黒木書院と呼ばれるようになりました。襖絵(ふすまえ)もぐっと色味を落とし風格のある水墨画で、「山水図」や「四季耕作図」「梅花雉子小禽図(ばいかきじしょうきんず)」などが配されています。