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名古屋城天守閣 木造復元について

1 趣旨

現在の天守閣については、戦後、市民の多大な寄附により再建されたコンクリート 製の建築物ですが、再建から半世紀を経て施設の老朽化や耐震性など様々な課題が 発生しております。そこで、名古屋市では、城郭建築として国宝第1 号でありなが ら、戦災により惜しくも焼失してしまった名古屋城天守閣の木造復元を進めていま す。
なお、木造復元された天守閣の竣工時期は、平成34 年12 月を予定しています。


画像提供:(株)竹中工務店

2 名古屋城の歴史と復元の意義

江戸時代初期において、名古屋城(1612年)、大坂城(1626年)、江戸城(1638年)。3つの天守は、その大きさで、他の城郭を圧倒していました。 ところが、江戸城は明暦の大火により、大坂城は落雷により天守が焼失し、再建さ れることはありませんでした。
一方、名古屋城は戦災により焼失するまで、日本最大の天守であり続け、その江戸・ 明治・大正・昭和という、その存在期間の長さから、多くの図面や絵、写真の撮影 が行われました。 その後、昭和5年(1930年)、当時の所管であった宮内省より名古屋市に下賜(か し)された名古屋城は、同月、天守、本丸御殿などが国宝に指定され、翌年には一 般公開が始まりました。
市民が自由に内部を見学できるようになったことで、より市民の記憶に残り、資料 や絵画なども多く出版されたのです。 戦災による焼失までわずか16年しかありませんでしたが、この間には多くの絵や 図面、そして写真が撮影され、その情報量は、他の城郭の比ではありませんでした。

3 名古屋城天守閣「木造復元」の強み

名古屋城については、昭和実測図や金城温古録(きんじょうおんころく)などの貴重な資料が存在しているこ とにより、史実に忠実な復元ができる唯一の城郭と言われております。

・昭和実測図

宮内省から名古屋城が下賜(かし)された後、名古屋市は昭和7年から国宝建造物 の細部の計測や拓本作成を行いました。実測調査は第二次世界大戦をはさんで完了 し、清書図282枚、拓本貼付27枚、計309枚の図面が完成しました。天守の 図面は大天守56枚、小天守15枚、計71枚です。外観、内部断面や平面、金鯱 や金具類に至るまで詳細に調査されています。
昭和実測図の閲覧はこちら

・金城温古録(きんじょうおんころく)

名古屋城は江戸時代には、修理、改築が何度も繰り返されましたが、その度に作成された資料も数多く残っています。その1つである尾張藩士・奥村得義(かつよし) とその養子・定(さだめ)が編集した名古屋城の百科事典「金城温古録」(きんじょうおんころく)を調べる ことによって空襲で焼失した名古屋城の内部まで知ることができるのです。

・ガラス乾板(かんぱん)をはじめとする豊富な写真

また江戸時代後期には、日本に写真技術がもたらされ、当時の名古屋城藩主であった徳川慶勝(よしかつ)がこれに強い関心をもち、自ら名古屋城をはじめ様々な箇所の撮影を行いました。
慶勝が1864年に撮影した広島城、大坂城は、わが国で初めての城を写した写真ということになるほど、この慶勝による撮影は価値が高いものであります。
また、明治維新まで残っていた城郭の多くは、明治6年の「廃城令」により取り壊されてしまいました。この時に廃城になったのは200余り(陣屋も含む)ですが、この時期、写真撮影技術が普及し、かろうじて何か所かの城が撮影されました。明治維新後に失われた天守で古写真が残るところは29城であり、この中には、わずか数枚しか写真が残っていない天守も少なくありません。
その中で、名古屋城は明治初期から多くの写真が撮影され、昭和15年、16年に撮影されたガラス乾板写真は、700枚以上現存し、その中で大天守、小天守を写したものが70枚以上存在します。

この他にも、民間のカメラマンが撮影し、彩色写真や絵はがきなど、数えきれないほどの資料が存在するのです。

名古屋城はかつての姿を、実測図や絵図、ガラス乾板、さらには市民による絵図や写真を通じて、他の城郭と比較にならないほどの情報量をもって復元できる城郭なのです。

金シャチ募金(名古屋城天守閣寄附金)

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